茄子がままに

週末の山遊び、街遊び、自転車遊びのこと。ホームマウンテンは六甲山です。

カトブン式六甲全山縦走(2020/09/26)

新田次郎孤高の人』で知られる加藤文太郎は、私が尊敬する人物の一人だ。その旨は兵庫縦断スピードハイク(2019/11/05) - 自転車で山、海へ行く に書いたので、ここでは割愛する。加藤文太郎は六甲全山縦走の先駆けとなり、その後も厳冬期のアルプス縦走において、脅威的な記録を数々打ち立てた。保温性の高いダウンジャケットや、GORE-TEXをはじめとする、優れた防水性と軽量性を兼ね備えた登山用ウェアがある現代でさえも、冬のアルプスは夏と比べ物にならないほど危険で、入山を許されるのは一部の上級者に限られる。彼が熱心に山を駆けた時代は大正から昭和初期にかけてであり、その頃の装備は現代のものと比較すると、重量は数倍であったにもかかわらず、性能面では心許なかったと推測する。

まだまだ未発達な登山装備をもってして彼が困難な山行を達成したその背景には、やはり六甲山で培った基礎的な体力と登山技術の存在が大きかったと思う。彼は六甲全山縦走をするにしても、ただ須磨から宝塚まで縦走するのではなく、和田岬の社寮から全て徒歩でつないだという。朝5時に和田岬を出発して、深夜2時ごろに帰宅し、翌日は何もなかったかのように出勤したというから驚きだ。そして私としては昨年に兵庫縦断を真似したのだから、この「加藤文太郎式六甲全山縦走」も遂行しなければいけないと思い立ったわけである。

5:00 スタート

スタートは東灘区の実家から。まずは六甲全山縦走の起点、須磨浦公園を目指す。キロ6分でダラダラ走れば休憩込みで3時間くらいで着くかな〜と甘々の設定。先は長いのだ、焦らずのんびり行こうや。

6:00 元町

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早朝のセンター街と元町商店街を駆け抜ける。昼間は人でごった返して騒がしいアーケードも、早朝はしんと静まりかえり、その中をペタペタと足音を鳴らしながら走るのはなんとも愉快なものである。

7:10 須磨浦公園

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やはり設定が甘すぎて50分も早く着いた。休憩等含めてキロ6分20秒ということで、ペースだけ見れば予定通り。家から約20kmだが甘々のタイム設定のおかげで疲労感はそんなになかった。トイレやら補給やらを済ませて全縦に備える。

7:22 須磨浦公園出発

7:40 旗振山

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カトブン式全縦と銘打ったからには通らなければならない「文太郎道」という登山道がある。高倉団地を抜けて栂尾山に登るとき、離宮道の上を跨ぐ「つつじ橋」を渡って突き当たりを左折すると、心が折れそうになるほど長い階段を登らなければならない。これが今の縦走路であるが、文太郎道は「つつじ橋」を渡って突き当たりを左折するところを、右折する。一見道がないように思われるが、騙されたと思ってそのまま進んでいくと、少しトレースのようなものが見えてくる。YAMAPやヤマレコ等の登山アプリがあれば、他の登山者が歩いた道を辿れるので分かりやすい。下のヤマレコの地図では、オレンジ色の線が他の登山者の歩いたルートを示している。紫色の線は今の縦走路(階段)を示しており多くの登山者が歩いていることがわかるが、右側の尾根にも同じように登山者が歩いた痕跡があり、それこそが文太郎道である。
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整備された今の縦走路とは打って変わって、文太郎道はかなり荒れており、木の根がむき出しになったところを登っていく。今の縦走路の長い階段から伺えるように、高倉台から栂尾山にかけては斜度がきつく、文太郎道も中々の急登であった。『孤高の人』の本文中には、六甲全山縦走路はまだ未完成であり冬の縦走路を一日で歩き通すのはかなり難しいという旨が記述されているが、文太郎道を歩くとその意味がよくわかる。

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道中には「元六甲全山縦走路(文太郎道)」と表示された木の看板がぶら下がっている。登山道というものは、まずその道を開拓した人がいて、長い年月をかけて地道に整備されていき、今のように安心して歩けるようになっている。私たち一般登山者が安心して歩けるようになるまでの過程には、大勢の人の弛まぬ努力が隠されている。どこの登山道を歩くにしても、そのことを忘れてはならず、“歩かせてもらっている”ことに感謝しなければならない。今の整備された縦走路と、荒れた文太郎道とを比較することで、改めてそう思った。
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ワイルドな文太郎道はやがて栂尾山直下で、今の縦走路と合流する。

8:21 馬の背

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馬の背の場合でも、今は安全のために階段や鎖などが設置されているが、文太郎が歩いた頃はもっと危険な道であったと想像できる。

9:13 高取山

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高取山も彼にゆかりの深い山だ。独身時代、和田岬の社寮や、長田の下宿に住んでいたころは事あるごとに高取山に登っていたそうだ。市街地から20分も歩けば登山口に着くほど、街と山(海も)の距離が極端に近い都市は、全国を見ても珍しいだろうし、その恩恵を受けてきた有名な登山家は彼以外にも何人かいる。神戸は優秀な登山家を生み出し育むためには、格好の都市であると言える。実際に小説でも、芦屋ロックガーデンの祖である藤木久三氏(作中では藤沢久三)が神戸の、街と山の地理的関係について以下のような言説をしている。

「加藤君、神戸ってところはいいところだね。前が海、うしろは山、神戸の町から歩いて直ぐのところに山があるんだ。岩登りをやろうと思えば、けっこう岩場もあるし、縦走で足をきたえようと思えば、それもある。信州が山に恵まれているといっても、松本から上高地に入るにはまるまる一日はかかる。信州に限らず、日本中どこを探したって神戸ほど、山男向きにできているところはない。」

10:26 菊水山

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11:20 市ケ原
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12:34 摩耶山

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摩耶山に来て掬星台からの景色を写真に撮らなかったのは初めてかもしれない。この日は朝からずっと天気がどんよりとしていて、景色を楽しめそうにもなかったが、その方がかえってランに集中できるので、悪いことではないと思うことした。

14:03 六甲山最高峰
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15:40 宝塚
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8時間18分で全縦区間を終えることができた。20kmロードを走った後の全縦と考えれば上出来である。しかし予想していたことではあるが、東六甲の下りでかなり足に疲労が蓄積してしまい、この先、宝塚から実家までの約18kmほどのロードはまともに走れそうにもなかった。腕を大げさに振りながらなんとか走り続け、やっとの思いで18時に実家に到着した。ちなみに翌日の筋肉痛は凄まじく、とても彼のように平気な顔をして仕事をできる状態ではなかった。

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