幸せというものに実体はなく、その形や大きさ、さらには輪郭までもが曖昧で不明瞭なものである。だからこそ幸せを感じたときに、言葉にしてみたり文章にしたり、なんらかの形で幸せを表現することが大切なのだと思う。
7月から10月まで約3ヶ月半過ごした山小屋での生活は、幸せを凝縮したようなかけがえの無い時間だった。もちろんそれだけ長期間であればその時々で色んな感情が入り混じっていたが、いざ山小屋生活を振り返ると「幸せ」という言葉以外見つからないのである。一緒に働き生活していた仲間たちは年齢、出身、性格もばらばら。それでも一緒にいて心地いいと感じるのは、長期間ともに共同生活をしてきたからという要因も勿論あるが、それ以外に同じ自然を愛するものとして、どこか根底にある価値観が似ているからなのだろうと思う。
早番で皆んなの朝ごはんを作っているとき厨房に差しこむ朝の光
鷲羽岳を眺めながらヘリポートでラジオ体操をしているときの皆んなの表情
部屋掃除をしているときのたわいもない雑談
樅沢倉庫の下の草つきに寝転び、太陽の光をめいっぱいに浴びてまどろむ午後
仕事が終わり、みんなで一つのテーブルを囲み夕食を食べるときの充足感
消灯後、外へ出て満点の星空を眺めた夏の夜
休日の朝、一緒に山を歩き、ときに立ち止まってただ風景を眺め、ときにカメラのシャッターを切り、ときにポツリポツリと語り合い
挙げるとキリがないほど一日一日が幸せな瞬間で満たされていて、思い返すほどにあのときの感情が恋しく愛おしく思える。あのときの感情はあの瞬間にしか存在しなかった。だからこそ価値があり大切な人生の1ページとして心に刻まれるのである。
