茄子がままに

週末の山遊び、街遊び、自転車遊びのこと。ホームマウンテンは六甲山です。

一年(2025.09.09)

一夏を過ごした双六小屋を約1年ぶりに訪れた。新穂高温泉から入山し小池新道を登る。笠ヶ岳方面との分岐にあたる弓折乗越あたりまで来ると双六の空気が流れていて、懐かしさが胸に込み上げてきた。その先の稜線の一角から、二つの山の鞍部にポツンと建つ双六小屋と、その背後にそびえる鷲羽岳が目に入った。

約3ヶ月半の山小屋生活を終えて下山するとき、山小屋の方を振り返り、次の夏にこの風景を見たときにどんな想いが駆け巡るのだろうかと自分に問いかけた。一年後、その答えは答えにならない複雑な感情だったが、またこの地に帰ってこれた嬉しさは確かにはっきりと感じていた。

テント場から小屋までつづく木道を歩いていると、優しい風がほおを撫でる。黄色く色づき始めた草木がさわさわと音を立てて揺れる。きらめく双六池の水面に波紋が広がる。この山がおかえりと言ってくれているような気がした。

山小屋で生活している人が漏れなく生き生きとしているのは、元々そういう性質の人たちが集まるのか、山小屋という環境がそうさせるのか、その両方であるか定かではない。生気を失った顔をして電車に乗る人々を日々ながめていると、山小屋の人たちが尚更まぶしく目に映る。

とはいえ、それは表面上のものであることを私はよく知っている。隣の芝は青く見えるものだ。山で暮らす人も、街で暮らす人も、みな等しくそれぞれの悩みを抱えながら生きているのだ。そう断言できるのはこの一年でどちらも経験したからである。

この一年で変わったこともあれば、変わらなかったこともある。生まれ育った関西を出たが、相変わらず近所の川を散歩して、訳の分からないことを呟いている。職場も変わったが、要領のなさは今でも変わらず、いつまでも下っ端仕事である。山は西も東も変わらず私を癒してくれる。走ったあとのビールはいつでも美味い。双六の人と自然は、一年経っても優しいままだった。

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