茄子がままに

週末の山遊び、街遊び、自転車遊びのこと。ホームマウンテンは六甲山です。

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町(2021/04/17)

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実家のある本山の町内からは、どこにいても保久良山の鳥居と石灯籠がよく見える。少し開けた山の中腹にそれらは建っており、昼夜を問わずいつでも麓の町を静かに見守っていた。

保久良山は子供達にとって格好の遊び場だった。小学生の頃は友人とよく秘密基地を作りに登ったものだ。山と言っても標高は185mで、小学生の足でも学校から30分も歩けば頂上に着いた。この学校というのが、作家の中島らもと同じ本山第一小学校である。同校出身の彼のエッセイ『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』には、保久良山にまつわるエピソードが書かれている。

本山第一小学校に通っていたころは、体育の時間によくこの山に登らされた。ほいっ、ほいっと、と頂上まで行って、てっぺんにある神社の境内でひとやすみしてから、上りとはうってかわって楽な下り道をおりていく。学校に着いて、それでちょうど50分という行程である。

休みの日にはこの保久良山から尾根づたいの金鳥山へ出、さらにその奥へ分け入って「水晶狩り」をした。

小学6年生の春、担任の提案でHRの時間に保久良山へ登りに行ったことがある。そして頂上から学校のある町に向かって大声で自己紹介をした。とてもユニークで人情深い先生だった。

らもが「水晶狩り」をした場所は風吹岩のことである。そう言い切れる理由は、私もまったく同じ事をしていたからだ。風吹岩と呼ばれる場所には花崗岩の塊が剥き出しになっていて、その隙間にキラッと光る石英があったのだ。それを道中で拾った石などでほじくりだしては、石英の美しさや大きさなどで友人と競い合っていた。

らものエッセイを初めて読んだ時、やる事なすこと全てが同じで思わず笑ってしまった。どうやら半世紀近く歳が離れていても、その町の子どもの遊びは変わらないようである。

また、らもは自身の灘高時代についてこのようなことを書いている。

僕はよく昼から学校をサボって一人で保久良山に登った。山頂から街をながめていると全ては事もなく平和そうで、さきゆきの不安にさいなまれている僕とは無縁のいとなみを続けているように見えた。

これも非常に共感できる話だった。保久良山は海や町から非常に近い。そのため阪急電車やJR、高速道路を走る自動車、大阪湾を行き交う船などが、忙しなく動いている様が見てとれる。それらを眺めていると、自分が悩んでる間にも世界は平常通り回っていて、自身の存在感がとても小さなものに思えてくるのだった。

ややこしい年齢になると必然と悩みも増えてくる。悩みの増加と比例するように、保久良山に登る頻度も増えていった。そして頂上からの景色を眺めて自身を俯瞰することで、悩みは解決しないにしても「まぁ何でもええわ。」と一旦リセットすることが出来た。

大半は一人で登っていたが、友人と登ることもしばしばあった。それは決まっていつも、本山周辺で一緒に晩ご飯を食べた後だった。真っ暗な坂道を腹ごなしに登っていると時折、暗闇の中でイノシシが走り去る音が聞こえたりもした。頂上に着くと、近況や将来のことについて小一時間ほど喋るのがいつものパターンである。不思議なもので、保久良山にいると何でも明け透けなく話すことができた。もちろん友人の素晴らしい人徳によるところが大きいのだが、保久良山という場がもたらす影響もあったと思う。

古来より航海の目印とされてきた保久良山の灘の一つ火は、私にとっても、この先の長い道のりを照らし続ける導灯となってくれるだろう。

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