自転車旅に最も適している移動手段はフェリーだと思っている。電車も悪くはないが、やはり輪行の手間とまわりの乗客への気遣いで疲弊する場合が多い。飛行機は輪行で利用したことはないが、電車以上に手間がかかるのは容易に想像できる。自家用車はどうだろうか。そもそもサイクリングしに行くのに車を使うこと自体ナンセンスであるように思われる。なにより行き帰りにお酒を飲めない。
フェリーの場合、輪行する必要無し、他の乗客への気遣いも無し、お酒は飲める、温泉も付いてる、食堂もある、寝てたら勝手に目的地に着いている。そして最大の利点が旅情を感じられる点である。
フェリーに乗り込んだ時点で非日常の旅が始まる。雑魚寝のスペースを確保したら真っ先に温泉に入り汗を流す。サッパリして温泉から上がったら、事前に買い込んできたお酒とつまみを持って上階の展望エントランスに向かい晩酌が始まる。フェリーが出港する頃には程よく酔いもまわっているだろう。おぼつかない足取りで甲板に出て、鳴り響く汽笛とともに陸地としばしのお別れを告げる。離れていく陸地を眺めると視覚的に現実逃避ができて精神衛生上よい。
これらの旅情溢れる一連の流れがたまらなく好きで、定期的にフェリーに乗りたい衝動に駆られるのである。今回計画したとびしま海道ライドの目的の半分は、フェリーを楽しむことが占めていた。
大阪南港を20時に出発したフェリーは、翌朝6時ごろに愛媛県の東予港に入港した。甲板に出て日の出前のグラデーションを帯びた空を眺めながらコーヒーを飲む。優雅なひとときが素晴らしい旅の始まりを予感させる。
東予港からまずは今治を目指す。途中マクドナルドに寄ってしっかりめに朝食をとる。旅先で食べる朝マックはいつにも増して美味しい。今治を走っていると造船所や海運会社などが多くあることに気づく。さらには海技学校までもある。まさに船の街である。
街中を抜けてしばらく走ると、サイクリングの聖地として知られる「しまなみ海道」の起点となる来島海峡大橋が見えてきた。橋の上に行くために、螺旋状になった緩いスロープを上る。
橋の上からは、瀬戸内の風景らしく小さな島々が浮かんでいる様子を眺められた。空は少し霞んでおりもうそこまで春が来ていることを実感する。気分よく来島海峡を横断して大島に上陸した。
しまなみ海道のサイクリングルート上には、道路の路側帯横に青線が表示されていて、その青線上を辿っていけばルートから外れることなく最後まで走れるようになっている。大島はど真ん中を突っ切るようにルートが設定されているが、ここは敢えてルートから逸れて海岸沿いにぐるりと時計回りで行くことにした。
上陸してまもなく小さな入江が現れた。停泊している小型の漁船がボッボッボッと間の抜けたエンジン音を鳴らし、その音が入江に反響している。その様子があまりにも長閑で、入江の防波堤に自転車を停めて少し休憩することにした。どこからかやって来た男性が先ほどの漁船に乗り込んだ。どうやら沖の方へと出ていくようである。見事に船体を旋回させて、相変わらず間の抜けたエンジン音を鳴らしながら漁船は入江を出ていった。
伯方島と大三島を結ぶ大三島橋を渡り切ってすぐ、道路沿いに大きな大きなギンヨウアカシアの木が立っていた。ギンヨウアカシアの花は「ミモザ」という名前でよく知られている。ここまで大きいものは初めて見た。このギンヨウアカシアの奥には鼻栗瀬戸展望台があって景色が良さそうなので行ってみることに。
展望台はやや木々に覆われて期待していたほどでは無かったが、途中道を外れてトレイルに入り込んだりして楽しめた。
今までしまなみ海道のコースになぞらえて走ってきたが、ここ大三島がとびしま海道との分岐点にあたる。大三島の西端にある宗方港からは、しまなみ海道から外れた瀬戸内西側の島々に行くためのフェリーが発着している。とびしま海道のルートについては、大三島の次に岡村島へ向かうことになるが、その間も宗方港から発着するフェリーで結ぶことになる。
しまなみ海道を走っていると平日でも多くのサイクリストとすれ違うが、ひとたびルートを外れると一気に人が居なくなる。この静かなサイクリングを楽しめる点がとびしま海道の魅力とも言える。宗方港へ行く途中に「歩歩海(BUBUKA)」という喫茶店があるので昼食をとることにした。大三島は飲食店が少ないうえに、今日は平日なので営業している店舗は限られる。そのような事情もあってか先ほどまでの静けさが嘘のように、非常に多くの人がランチに訪れていた。チキンサンドウィッチと瀬戸内レモンソーダを注文。どちらも大変おいしくて満足した。
宗方港に到着したものの、岡村島行きのフェリーが来るのは1時間30分後でまだまだ時間があった。特にすることもないので防波堤の上でしばしお昼寝タイム。仰向けになると暖かい日光が降り注いでなんとも気持ちがいい。身体を撫でるようなそよ風と、穏やからな瀬戸内の波音も眠気を誘う。私と同じようにフェリーを待つ人の気配もするが、この昼寝の気持ちよさの渦中では人目も気にならない。
ようやくフェリーがやって来たので自転車ごと乗り込む。甲板ではおじいさんとその孫娘2人が写真を撮ろうとしていたので、よかったら撮りましょうかとスマホを受け取った。お礼にとコーヒーをいただいた。瀬戸内クルージングを頼みながら飲むコーヒーの味もまた格別である。
約15分ほどのクルージングを楽しんだのち岡村島に上陸した。しまなみ海道に浮かぶ島と比べて、とびしま海道の島々は小さい。岡村島も一周20kmあるかどうかという大きさだ。岡村島と大崎下島の間にある海峡では、大型のタービンのような機械部品を載せたパースをボートが牽引していた。
この海峡にかかる岡村大橋が、愛媛県と広島県の県境にあたる。大崎下島からは広島県である。
ここは大崎下島にある御手洗地区。江戸中期に建てられた町屋から、昭和初期ににかけて建てられた洋風建築が点在しており保存地区に指定されている。北前船の潮待港として発展していった歴史的背景もあり、山に囲まれた入江は静かに波打っていた。
時間をかけてじっくり観光したい場所ではあるが、今日のゴールとなる呉に着くのが遅くなってしまうため、またの機会に楽しみをとっておくことにした。その後もいくつか島を渡り、とびしま海道最後の安芸灘大橋が見えてきた。
2021年の夏に上映された映画「ドライブ・マイ・カー」では、物語の中心人物である家福とみさきが赤色のサーブを走らせ、この安芸灘大橋を渡るシーンが印象的だった。安芸灘大橋からは呉の山が連なっている様子が見えた。その連なりの一番奥には、私にとって思い入れのある灰ヶ峰もいた。
本土に上陸し、人の多い広の市街地を抜けて、呉へと続く休山トンネルを走る。このトンネル内には車の走行音を遮断するために、車道と歩道の間に防音壁が設置されていた。
トンネルを抜けるといよいよ呉の市街地だ。大好きな街に来訪できたことに嫌でも気持ちが高鳴る。蔵本通りを南下していき、堺川にかかる花見橋で自転車を停めて、灰ヶ峰を背景に記念写真を撮った。呉に来るたび同じアングルで写真を撮ってしまうが、呉の街を見守るようにそびえる灰ヶ峰を見るとやはり写真を撮らずにはいられない。
呉駅に隣接する駐輪場に自転車を停めておいて夕食へ。行先はもちろん「森田食堂」である。ご飯、湯豆腐、茄子の煮浸し、鯵の煮付け、麦の水割りをテーブルに並べる。女将のすずさんと地元客とのかけ合いを耳にしながら、いい感じに酔いが回ってゆく。森田食堂を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。人の笑い声、街の灯り、港の匂い、それらが意識と混濁していき呉の夜が訪れるのであった。